蕎麦は現在では身近な食べ物として日本全国で食べられていますが、実は江戸時代までは麺類ではなく、現在とはかなり違う位置づけの食べ物でした。このコラムではその歴史や江戸文化に結びついて大ブレークした背景を探ります。
1. 蕎麦はお米よりも長い付き合いって知ってた?
1-1. およそ9000年以上前から食べられていた
日本で蕎麦を食べていた痕跡でもっとも古いのは、高知県にある遺跡で見つかった9000年以上前のものと思われる蕎麦の実の花粉です。日本人が稲作を始めたのは3000年以上前と言われていますから、付き合いとしては蕎麦の方が圧倒的に長いことが分かります。
1-2. 当時はまだ「麺」ではなかった
蕎麦が文書等の記録として残っているのは奈良時代以前です。そのころにはまだ蕎麦を製麺する技術は無く、粒のままの状態でかゆ状にして食べていたようです。
栽培がおこなわれていたことは明確に文献から読み取れます。平安時代には和歌にも登場する程度には馴染んでいることもわかっています。
1-3.蕎麦は非常食だった!?
蕎麦は荒廃した土地でも成長が可能で、種を撒いてから5日前後で発芽します。35日あれば開花して80日目頃には収穫が可能となりますから米に比べて収穫が早いというのが特徴です。早い場合は60日前後で収穫できるケースもあり、上手く行けば1年のうちに3回から4回の収穫が可能という訳です。また、寒冷地でも栽培可能だったことから、稲作が難しかった寒く土地が痩せた地域でも育てられたこともあり、文化として東北で発達したことも納得できる事実です。
しかし、残念なことに美味しく食べる方法が無かったために、飢えをしのぐための非常食としての用途がメインでした。そのため貴族や役人が食べるものではなく、貧しい農民の食べ物としての期間が続きます。
食べ方としては粥にするか、すりつぶして作った粉を水で練って作る蕎麦がき、焼いて食べる蕎麦焼きです。
ただ、この収穫の速さは大変貴重でした。昭和の時代、日本が激しい戦時体制にあった前後の食糧が不足していた時期には急ピッチで作り続けられ、結果的に主食としても非常食としても日本人と関わってきました。現在では蕎麦の栽培に縁が無いような地域でも、広く日本全国で作られていた記録が残されています。
2. 江戸時代から現在の形状に
2-1.茹でるのではなく”蒸す”
上記の段階では味としてもあまり受け入れられていなかったのか、江戸でもうどんの方が人気の食べ物でした。上方(関西)から伝わった醤油味のだしで食べるうどんはあっという間に受け入れられていったのです。
この頃はまだ茹でて食べるわけではなく、蒸して食べることが主流でした。まだつなぎとして小麦粉を使う文化が無かったので、茹でると細かく切れてしまい、調理しにくく食べにくかったからです。いわゆる十割蕎麦なのですが、切った蕎麦を蒸籠(せいろ)の上で蒸した食べたことから、「せいろ蕎麦」として現在も呼んでいるところもあります。
2-2.江戸の「ソウルフード」だった
江戸時代になると麺として食べるようになり、蕎麦がきと混同しないために「蕎麦切り」という名がつけられます。この名称で今も呼ぶ地域もありますが、多くの場所では省略して「蕎麦」と呼ばれるようになりました。
とはいえ、上方に負けてはいられないと思う人もいたようで、江戸ならではの食べ物が欲しいという理由から蕎麦に着目した人がいました。これは現在で言うご当地グルメ対決と似たような考え方でしょう。主食感があったうどんに対抗してファストフード感を尊重し、つゆも上方の真似をしたくない気持ちから薄口でなく濃い口しょうゆが採用されます。
18世紀の中盤になると小麦粉をつなぎとして使う二八蕎麦が誕生しました。茹でることが可能となって味が良くなると、江戸ではいよいよ蕎麦屋が増えていき、うどん屋を駆逐していきます。
この頃には蕎麦を食べる文化と、江戸の人々が大切にしたライフスタイル=「粋」が結びついていきます。蕎麦の湯で時間を待てないせっかちな江戸っ子が、待っている間に酒を楽しむようになります。店側もその待ち時間で利益を上げようとそれに合う肴を提供し始めました。それは「板わさ」という薄く切った蒲鉾に山葵と醤油を添えたものや、「天たね」(現在で言うてんぷら)などで、事前に準備しておけば蕎麦屋としてはさっと出せるメニューです。板わさや天たねでさっと酒を飲み、締めにそばを食べて帰る、長居はしない、というスタイルが江戸の町人文化に上手くマッチして、蕎麦は江戸っ子のソウルフードとなっていくのです。
このブームに支えられて現在まで続く老舗が生まれました。藪(やぶ)、更科(さらしな)、砂場(すなば)の三つの系譜です。これらは江戸時代に存在した無数の蕎麦屋の中で勝ち残っていく名店となるのです。
3. そばつゆは「味噌」ベースだった!?
江戸で蕎麦ブームが起こる前は、現在のようなそばつゆで食べることはありませんでした。「味噌だれ」と呼ばれるものが味付けの主流で、煮込んだ味噌を布袋に入れて吊るした状態で、布で越されて垂れてくる汁で食べていたのだそうです。これに大根の汁、鰹節、おろし大根、あさつきを薬味としており、芥子(からし)や山葵(わさび)も使っていました。予想はしにくいですが現在とは全く違う味わいであったことは想像がつきます。
4. ご当地そば
蕎麦は日本の食文化に広く浸透しており、長い歴史の中でさまざまに変化しながら、いろいろな地域で今も楽しまれています。ここではいくつかのご当地蕎麦を取り上げてみましょう。
4-1.にしん蕎麦
にしん蕎麦と言えば京都の発祥と言われています。1882年(明治15年)に松野与三吉という人が考案したもので、それ以前からあった「身欠きにしん」を蕎麦と合わせる提案をしました。身欠きにしんはたんぱく質、ビタミン、ミネラルを豊富に含んでおり、当時流通の関係から海産物が手に入りにくかった京都にとって貴重な食材でした。これを甘辛く炊いたものを蕎麦に乗せることで、栄養を強化した上に、味わいもよかったため京都の人々に受け入れられました。
北海道でもにしんそばを食べる文化がありますが、それは何といってもにしんの漁獲地だったからです。味付けとしては関東風の濃いだし汁に刻みのりを添えており、京都とのにしんそばの味わいとはずいぶんと異なっています。
4-2.はらこ蕎麦
岩手県は北海道に次ぐシャケの産地です。そのシャケから取り出した「はらこ を熱い蕎麦にかけるのがはらこ蕎麦です。
はらこ=いくらですからビジュアル的にもかなり満足感があります。半熟になったイクラのプチプチとした食感を楽しみながらいただく蕎麦は絶品です。
4-3.しっぽく蕎麦
「しっぽく」という名前がつく料理は全国にありますが、ここでは長野県のしっぽく蕎麦を取り上げました。具だくさんのいわゆる五目蕎麦とも言うようなもので、入れられている具はお店によって異なりますが、蒲鉾、鶏肉、卵焼き、花麩などが乗った目に美しい蕎麦です。長野県では「しっぽこ」と発音する人も多いようです。
5. まとめ
蕎麦の歴史や文化についてまとめてみました。意外に長い日本人との関りや、味噌味で食べていたことなど知らないことが多かったのではないでしょうか。蕎麦に関する知識はまだまだ奥が深く、今回も少し触れた地域性や、その味の違い、文化との関りなどを調べながら食べ歩きするのもまた面白いでしょう。
例えば上の例では「はらこ蕎麦」を上げましたが、同じ岩手県では娯楽色あるいはもてなしの要素が強い「わんこそば」が有名です。島根県出雲市では「出雲そば」あるいは「割子(わりご)そば」と呼ばれる系譜の蕎麦があります。それぞれに食べ方も違えばだしの味や具材、薬味なども特徴があります。これを機会にさまざまな蕎麦を食してみてください。